奄美群島(日本復帰と黒糖焼酎・大島紬)歴史・由来
奄美群島の日本復帰後、1954(昭和29)年に制定された「奄美群島復興特別措置法」(現在は「奄美群島振興開発特別措置法」)に基づいて復興事業が進められる。奄美群島だけで許可されている「黒糖焼酎」の生産も、そうした事業の一環として、日本復帰直後に開始された。このころ、大島紬も復興を果たし一大産業となり、昭和50年代頃まで隆盛を誇った。
ゆかり:黒糖焼酎・大島紬 [2]
2021年7月、奄美大島は徳之島・沖縄島北部・西表島とともに世界自然遺産に登録されました。島の織物・大島紬の起源は定かではありませんが、養蚕の適地だった奄美では古くから絹織物が作られ、初期の大島紬は手紬糸を地機で織り、島に自生するテーチ木などの草木で染めて島民が自家用に着ていたもの。江戸時代、薩摩藩が『紬着用禁止令』を出すと、大島紬は藩への貢物として作られるようになります。
1609年に薩摩藩が琉球を征討して以来、奄美は薩摩の領土となり、1830年に黒糖を藩が総買い上げする制度が始まると、サトウキビ栽培が群島全域で進みました。日本復帰後の1954年、復興事業の一環として奄美群島だけに許可された黒糖焼酎の生産が始まり、大島紬も復興して昭和50年代ごろまで隆盛を誇りました。
所在地 奄美大島は鹿児島県にあります。

島には平家伝説も残ります。壇ノ浦の戦い(1185)で敗れた平氏の残党が落ち延びてきたという伝承で、平行盛は龍郷町戸口、平有盛は名瀬の浦上、平資盛は加計呂麻島の諸鈍に居を構えたとされ、それぞれ行盛神社・有盛神社・大屯神社があります。島の味は、薩摩の役人をもてなした料理といわれる鶏飯。ほぐしたササミ、錦糸卵、シイタケ、ねぎやのりをのせ、地鶏のスープをかけて食べます。
奄美群島の日本復帰後、1954(昭和29)年に制定された「奄美群島復興特別措置法」(現在は「奄美群島振興開発特別措置法」)に基づいて復興事業が進められる。奄美群島だけで許可されている「黒糖焼酎」の生産も、そうした事業の一環として、日本復帰直後に開始された。このころ、大島紬も復興を果たし一大産業となり、昭和50年代頃まで隆盛を誇った。
ゆかり:黒糖焼酎・大島紬 [2]
壇ノ浦の戦い(1185)で源氏に敗れた平氏の残党が落ち延びてきた、という伝説が奄美各地に残る。伝承では平行盛は龍郷町戸口、平有盛は名瀬市浦上、平資盛は瀬戸内町加計呂麻島の諸鈍に居を構えたとされる。3ヶ所には行盛神社、有盛神社、大屯神社がある。
ゆかり:行盛神社・有盛神社・大屯神社・諸鈍 [3]

薩摩の役人をもてなした料理といわれる鶏飯。ほぐしたササミ・錦糸卵・シイタケ・ねぎやのりをのせて、地鶏のスープをかける。
ゆかり:鶏飯 [5]
大島紬の起源は定かではないが、養蚕の適地である奄美大島では、古くから絹織物が作られていた。初期の大島紬は、手紬糸を用いて地機で織られ、奄美に自生するテーチ木やその他の草木で染色されたものを、自家用として島民が着用していた。江戸時代になると、薩摩藩より『紬着用禁止令』が出され、大島紬は薩摩藩への貢物として作られるようになる。
ゆかり:本場奄美大島紬・大島紬・テーチ木 [6]

1609年、薩摩藩は琉球を征討し、以後奄美は薩摩藩の領土となった。1830年に黒糖は藩が総買い上げする制度が始まると、サトウキビ栽培のプランテーション化は奄美群島全域で著しく進行した。
ゆかり:黒糖・サトウキビ [2]
2021(令和3)年7月26日、奄美大島・徳之島は沖縄本島北部・西表島とともに世界自然遺産として登録された。
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